昭和49年12月15日 前夜祭



 (途中から)
 こんな大きな声で。それからたまがりましたのは女中さんが、みんなお客さんの残飯を、お膳の中に全部こぼしてからそれをバーと投げますと、もうそれこそ凄まじい勢いでそれを、鯉が盛り上がるように集まってくるですよ。そしてその時に聞いたんですけどもそりゃ凄まじいのがおるんです、ブルドックのごたる顔した奴がおる。そしてやっぱボスがおるんですね。それで餌を争って食べる情景を見せて頂いたんですども。
 今日私は昼休ませて頂いておる時に、その時に見たよりももっと凄まじい鯉が、大きな鉢にお供えになっている所を頂いたんです。それがよく見ると何とブルドックよりも、虎が口をあけて、こう牙をむいておるような鯉でした。その鯉の顔がですね。どう言う様なことだろうかと、私は思わせて頂いて、ただ今お話いたしました、水前寺の料亭での鯉を思い出したんですけれども。
 今朝から久富繁雄さんがお届けをされますのに、ドロドロに濁った様な、まぁ堀でしょうかね、そこに沢山な鯉とか鮒とか泳いでおる。それを一生懸命捕られる。それがあんまりにドロドロ濁っておるもんですから、長男の邦夫さんが大きなバケツを持ってきて、そん中に清水を入れてそれで体を洗わなんぐらいに、汚れておる魚を沢山捕っておるお知らせを頂いたというお届けがありました。
 私はその時にはどういう意味か分からなかったけれども、私が頂いておる事又は、久富さん達が親子、夢のなかに現れておられる話を、思い合わせて、はは今日の前夜祭の時に、皆さんに聞いて頂くお話だなと気付かせて頂きました。今日は富久信会第一回の発会式をなさいます。そのお届けも今晩の前夜祭に併せて、私はお届けをさせて頂いたのですけれども。そもそも報徳祭というのは四神金光様、二代金光様または三代金光様。ご承知のように、四神様の御信心御神徳によって、九州に道が開けた。
 小倉の桂松平という先生に、九州布教を命じられた。それが、そもそもの、九州のお道の信心の始まりでございます。それはそれは大変なご修行をなさった先生でございますが、また次の弟子が次々とお出来になられて、福岡がありまたは久留米があり、三井教会があり、または手続きは違いますけれども、甘木があるのでございます。甘木もやっぱり桂先生のお弟子でございます。
 そういうまだ沢山の先覚がおられますけれども、取り分け私共に直接関係のある先生方と、同時にまた甘木の安武松太郎先生辺りの残された御信心、所謂御遺徳というものは、それは大変なことだと思います。だからそういうお徳をただ素晴らしかった、素晴らしいと言うて誉め讃えるとか、偲ぶとかと言う様な事では、報徳祭にはならない。報徳祭というのはどこまでも、その徳に報いると言う所にあるのでございますから。
 先生あなた方の御信心のおかげで、今日私もこの様に力を受けて、この様におかげを頂いておりますと言う事を、申し上げれるお祭りでなからなければ、報徳祭の意味はないと思うのです。ただあなた方は素晴らしかった、あなた方は素晴らしかったと言うておっても、後がすぼって来る様な事ではです、先生方喜びなさらん。そういう意味でです合楽は、桂先生の不退転の御信心と申しましょうか。事神様事ならば前には進んでも、後ろには引かんと言われる、ご大精神の基に九州に道が広がった。
 吉木先生、福岡の初代には、「石橋さん福岡の町には馬鹿と阿呆で道を開け」と教えられた。久留米の初代には三代金光様が「石橋さん馬鹿と阿呆で道を開け」と教えられた。これは、みんな四神様が教えて下さった御教えである。ですから合楽の場合は、どの一つでも真似方ではあるけれども、その先生方の残された教えに、本気で取り組ませて頂いて、今日の合楽がある。
 同時にまた合楽があると言えば、三井教会の初代、荒巻弓治郎先生のお取次ぎによって、小さい折に無い命を一回ならず、二回までも助けて頂いておるおかげで今日の合楽があるということになる。先生おかげであの時に助けて頂いたおかげで、今日の合楽があり沢山の人が救い助けられておるのですと言う事になって初めて、奉徳祭の値打ちがあると思うのです。そこでおかげを受けると言う事がです。
 おかげを現すと言う事が、取りも直さず二代金光様、三代金光様は言うに及ばず、先覚諸人の御霊様に対する、御礼のお喜びを頂けれる、徳に報いる事のお祭りであると言う事を、改めて分からせて頂かなければなりません。そこにこの度合楽にあそこに書いてある言葉を借りると、合楽商人の集いと言う様な方達が、集いに集うて、富久信会を結成され。そして今日発会の運びになり、愈々合楽商人の本性というものがです、どうあらなければならないか。
 と言う事をです私は、今日の私が頂いたお夢の事やら、久富繁雄さんが頂いておられるお夢の事やらを、併せて感じさせて頂いたのでございます。久富繁雄と言う事はその久富と言う事の中に、富久信会の富久が入ってるです。ひっくり返すと久富と言う事になるでしょう。しかも親子でそれを取ってそれを清めておられると言う所にです。是は私と富久信会のみなさんと言う事も言えるだろうとこう思うのです。清い所にはお魚は住みませんそういう道理です。
 それで例えば心が濁っておるとかと言う様な意味ではなくてです。いうならば合楽宗とでも申しましょうか、とにかく私はお道の信心に基いて、合楽の信心に基いて、お商売ならお商売をなさるならばです、その人が、お仕入れ先からでも、お得意さんからでも、あちらは合楽のご信者さんだと言う事を、認識もして貰わない様な事では、おかげにならんと思うです。これは私共の商売をしておった、いうならば儲かりさえすりゃよいと言った様な商売の時分ではありましたけれども。
 店の者全部がここに御神米、真っ赤な袱紗に包んだ御神米入れを、ここに入れておる。えらいあんた、色気のあるもんばここに入れとんのち、みんなが聞くとこれは御神米ですと言うて見せる。そすと金光様の信心しござるけんと向こうが信用する。と言うてそげな風に信用させて、実際は信用されるだけのものは持っておらんけれどもですよ。ですから、私の行くところ、金光様の信心を知らない者はなかった。はぁまた大坪さんの来らっしゃったけん、金光様の話ば聞かんならんというぐらいにあったんです。
 私は濁りに濁ると言う事はね、お道の信心というか合楽で頂いておる、信心の臭いがです、少しはねえげつない位にプンプンするような信心を、まずは身に付けなければいけないという事だと思います。信心しておる事を遠慮して、金光様の信心しておると言う事も、言えない様な事で、示現活動すらも出来るはずはありません。あっちはとても金光様気違いじゃからと言われるくらいなです。
 信心を本当に頂かなければいけないと言う事だと思いました。そういう中にです私は清い所には魚は住まないけれども、そういう中には返って魚が住む。いうならば川魚といえば、お徳と言われるのですから。力を受けておく、そういう中に、お徳を受けていく。金光様の信心。いうならば金光様の、八波の御紋章を背中にかろうておるというのでございますから、この御紋章に対してでもおかしな事は出来ないと言う様な信心を頂かせて頂く。そして本当にいやが上にも、儲からせて頂かなければいけない。
 そして本当の意味においての示現活動が出来るおかげを頂かせてもらわなければならないと言う様な事だと、私のお夢からそれこそどう猛なまでの、いうならば鯉のように魚の頭であろうが骨であろうが、何もかにもないとにかくお客さんの残飯の全部をボーンと捨てると、それを奪い合って食べるようにです。あれは好きのこれは嫌いのと言った様な事ではなくて、一切を自分の血に肉にしていけれるおかげ。
 大黒様と言う事は、皆さんが打ち出の小槌に魅せられておるような感じがいたしますけれども、勿論あの打ち出の小槌と言う事は素晴らしい。私は昨日日田の支部の共励会に、いつも年末に、私はおかげ頂くんです。あちらへ参りましてから思わせて頂いたんですけれども。あちらにお神様の部屋に、大黒様の軸が掛かっておる、その大黒様は私がそれに、讃を書いておる。
 そしてその大黒様の図柄というのがです、打ち出の小槌は持ってござらんのです。いうならば宝珠の玉、宝の玉を膝の上にこうして抱えておられる大黒様の像です。是は大黒様の願いが、いうならばお徳が成就した姿であります。重い袋も持ってはござらんのです。是が大黒様の焦点求めて求め抜かせて頂いて、そういうおかげになっていかなきゃならんのでございましょうけれども、皆さんが頂いておられるのは、打ち出の小槌を片一方に持つならば片一方の手には、大きな袋を担いでおられると言う事でございます。
 ですから打ち出の小槌的な、本当におかげが頂きたいならばです。大きな袋を平気で担げれる私共にならなければならない。私共の前に起きて来る全ての事柄です。一切が私共の血に肉になるものばかりなのですから、それを水前寺の鯉ではないですけれども、どう猛なまでにですその一切のもの、何もかにもを食べてしまうくらいな、信心が必要である。はぁこげな重かもんな持ちはきらん。この重かつから開放されたいと言った様な願いの信心では駄目だと。
 修行はつきもの、その修行の袋が軽々と、いや有難く楽しく担げれるようなおかげを頂いて、初めてこちらに持っておる打ち出の小槌の功というか、徳が現す事が出来ると、私は思うのでございます。そういうおかげを頂くと言う事。これは商人だけの事ではありませんけれども。たまたま今日に丁度その発会をみる、今日お届けをさせて頂いた、富久信会の精神ともいうようなものがです。
 私の夢又は久富さんの夢、問題はそこから生まれてきておるおかげというものをです、清めると言う所が、また大事なのです。その辺の所を今後の信心の継承させてもらう焦点ともさせて頂いてです、おかげを頂く。とにかくおかげを受けると言う事が、そして先生方の御信心二代様、三代様の御信心に応え奉るということは、おかげで斯くおかげを受けておりますと言う事になった時に。初めて神様方が喜んで下さる訳になるのです。そしてその頂いたおかげを持ってです。
 最近言われるところの、合楽示現活動に参画さして貰うというような、おかげを頂いた時、いよいよ、報徳、徳に報いたということになると思うのです。お祭りが済みましたら、富久信会の方達の初の会合が、新館で持たれることになっておるそうですからどうぞ宜しくおかげを頂きますように。明日はいよいよ只今申しましたような意味合いにおいてのお祭りでございます。
 どうぞ合楽示現活動をさせて頂く、いうなら示現活動などに一番チャンスだと思うのです。信心のない人にも、分からない人にもとにかく、見に来るだけでも見に来てみなさいと言うて、大祭の有難い雰囲気の中に誘い、またはお導きをさして頂いたら、その中から、新たな示現活動を神様が起して下さるというふうに思います。どうぞ隣近所誘い連れのい合うて、明日の御大祭を頂きたいと思います。
   どうぞ、宜しくお願いします。